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メインストリーム通信61号


かわはら〜、読んでや。
太田シンガポール航空搭乗拒否事件

いよいよ判決は、07年8月9日(木)午後1時15分〜!

 皆さんこんにちは!スタッフの太田です。新年度がスタートして、メインストリーム協会ではこの夏にあるASIA TRYのイベントで、てんやわんやの状態ですが、実はこの夏にもう一つ障害者の人権に関わる大切な裁判の判決が下されるのをご存じでしょうか? 新しくメインストリーム協会へ関わりを持ち始めた人のために「太田シンガポール航空搭乗拒否事件」のことを整理してお知らせします。

事件の概要
 03年7月30日、僕・太田は友人へ会いに行くため、関西国際空港からシンガポール航空を利用しバンコクへの一人旅の企画を立てました。これまでバンコクへは何度かアテンダント(介助者)と一緒に行ったことがありますが、海外への一人旅は初めてです。確かに僕は一日、平均8時間の介助者を利用してます。でも後の16時間は一人でいることが多く、トイレなども自分で処理ができます。そして一人で行くにしても友人にバンコク国際空港の到着ゲートまで出迎えに来てもらるように約束もしていましたから、正味一人になる時間は航空機に乗っている間の5時間(大阪からバンコクの飛行時間)だけでした。
 当日、午前8時のチェックインに間に合うように、友人の佐藤さんが車で迎えに来て、また車中には廉田さんと中林君も一緒で関空までの道中、冗談も交えながら、楽しくみんなで関空へ向かいました。
 8時前に関空へ着き、見送りの三人と一緒にシンガポール航空のチェックインカウンターへ。僕がアテンダントへ指示を出して、航空券とパスポートをカウンタへ持っていってもらっている間、僕の代わりに佐藤さんがカウンターの前に立っていた従業員へ単独での搭乗を伝えました。搭乗ゲートから機内への移動(車いすを押していってもらうこと)→(出来るならば)機内の食事とトイレの介助→(バンコクへ着いたら)機内から到着ゲートまでの移動を依頼して下さり、その従業員はちゃんと依頼を聞いてから、何のかげりもなく「はい、全く問題ありません。ご安心下さい」と言われました。
 チェックインを済ませた僕らは、出国ゲートで係員と落ち合うまで1時間ほどあったので、朝食を取りに空港内の喫茶店へ。楽しい食事が終わって、ぼちぼちと出国ゲートへ向かおうとしたとき、僕の名前の館内放送が聞こえたのです。
「なんやろう?」と想いながら、チェックインカウンターへ着くと預けたはずの僕の荷物がまだ一つ寂しく置かれてました。するとカウンターの方から男の方が現れました。「シンガポール航空のカスタマーサービス部長の伊藤です」と述べた後、冷静に「実は、今回、太田様は介助者がおらず、単独の搭乗を認められません」と切り出しました。
 僕も含めて、見送りの三人も初めは何を言われているのかが想像に大きく反した言葉だったので、理解できず、もう一度聞き返しましたが、伊藤氏の言葉は変わりませんでした。
 そして、僕は一つ一つ脳裏で確認しながら「飛行機に乗れないと言うことは、バンコクまで行けないと言うこと。バンコクまで行けないと言うことは、友人に会えないと言うこと。友人に会えないと言うことは…。オーイ、何するねん!」と順番に辿って行くうち、ことの重大性が見えてきましたが、それでもまだ今後の行く末をどうしたらいいのかわからず、ただただ必死で廉田さんと佐藤さんが伊藤氏へ抗議して下さっている光景を見守るしかありませんでした。

伊藤氏があげた搭乗拒否の理由:
1. 言語障害がある。意志の疎通がスムーズに出来ない。何かあったときに意志が伝わらない。
2. 上肢・下肢に障害がある。
3. 介助者がいない。

という見た目だけの判断と理由で、単独での搭乗は拒否された。
その場で一時間半の抗議をしましたが、搭乗出来ず旅行は中止となりました。

シンガポール航空との交渉
日 時:2003年9月11日 15:30〜17:00
会 場:シンガポール航空 大阪支店(梅田第一生命ビル12F)
出 席:
《シンガポール航空》
チャン・コクミン(西日本地区支配人)、デービット・ホー(関西国際空港支店長)、文野 賢(西日本地区旅客営業部長)、伊藤 昇(カスタマーサービス部長)
《メインストリーム協会》
太田雅之・廉田俊二・佐藤 聡・尾上浩二(DPI日本会議)・杉谷(アテンダント)
《取材》
  神戸新聞 篠原記者(本社社会部)

要望事項:
@.7月30日に搭乗拒否した理由を再度確認
A.言語障害のある全身性障害者の単独搭乗を認めること
B.全身性障害者(上肢・下肢に障害がある人)であっても、障害の状態が安定していることを当本人が告げれば、貴社は医師の診断書の提出を求めず、一般搭乗客と同じように対応をすること
C.障害に対する正しい理解を社員に対し教育すること
交 渉:抗議文と要望書を提出。要望項目のみ読み上げ、チャン支配人とホー支 店長は日本語がわからず英語を使うため、伊藤部長が通訳をする形でお こないました。しかし、こちらの聞きたい明確な搭乗拒否した理由の回 答は聞けずに終わりました。

シンガポール航空賠償請求事件の裁判を興す
経 過:
2003年12月頃、東俊裕弁護士さんに相談と弁護の依頼:熊本からDPIの会議で大阪に来られていた東さんとお会いし、搭乗拒否の話を説明。即答で裁判の弁護を引き受けて下さる(弁護士費用も免除、裁判の公判日に熊本から来る旅費と謝礼のみ)。
航空券の申込書や各証拠書類・当日の状況を詳しく文章に興す作業などの準備に1年を要した。
2004年12月16日、訴状を神戸地方裁判所尼崎支部(尼崎簡易裁判所)へ提出。同日の夕方から各新聞社から取材が殺到し、紙面にも載る。翌月に被告側(シンガポール航空)から答弁書が出され、初公判日が決まった。
2005年2月24日、午後1時15分〜「シンガポール航空賠償請求事件」裁判の初公判が開かれた。東俊裕弁護士さんに加えて、大阪から辻川圭乃弁護士さんがご協力下さり、原告・太田雅之は弁護士さん二人いわゆる弁護団を構え、被告・シンガポール航空と戦うことになった。
裁判の内容:訴状と答弁書の確認。この時、被告の答弁書には「契約は成立していない(チェックインを認めていない)」とあったのを撤回したので、今後の流れとして「一度、受け入れたのをなぜ拒否したのかの事実追求を以ていきやすくなったのは、大きな驚くべき進展であった。

 以後、2007年5月10までに12回の公判が開かれました。

 今振り返ると、中でも第9回(2006年9月29日)はTVドラマさながらの証人尋問があり、緊張しまくりつつも貴重な体験でした。そして各公判毎に出す準備書面では、弁護士さんのアドバイスや廉田さんと佐藤さんの記憶および自分の当日の気持ちと出来事を一緒に思いだしつつ、文面にしたためていく作業もすごく勉強になりました。
 2007年2月26日の和解交渉も決裂し、最終公判の8月9日に裁判長から判決が言い渡されることとなりましたが、一つの偏見と差別を訴えるのに、2年6ヶ月以上も係ってしまうのでしょうか?
 すべては、“理不尽な理由”が発端です。この“理不尽な理由”がなかったら、一人でも飛行機に乗って、バンコクの友人と会えたはずです。
 今回はたまたま僕が搭乗拒否にあって、周りの親身な方々がサポートしてくださったから、裁判をおこし、また募金でのビラ配りやらで多くの人たちに知ってもらうことが出来、障害者の人権を勝ち取る瞬間を目の当たりに出来る幸せな僕ですが、まだまだインターネットで「搭乗拒否」というキーワードを入力し、検索すればたくさんの似た搭乗拒否事件がヒットされ、ほとんどが“理不尽な理由”を跳ね返せないまま、泣き寝入り状態の人たちがいます。
 是非とも良い判例を出し、“理不尽な理由”を跳ね返す強い根っ子になりたいとです。
 8月9日は、神戸地裁尼崎支部へ来て下さい。(太田)
 
コーディネーター全員で研修に行ってきました!!

 少し前の話になってしまいますが、3月16日にメインストリームのコーディネーター全員と下地・林・佐藤というメンバーで、夢宙センターのコーディネーターの方達を講師に研修に行って来ました。他団体の介助者との関係作り等をどんな風にしているかというテーマです。
 こういう試みは初めてで、実はメインストリームの方が介助派遣の歴史は長いのですが、なかなか介助者や利用者との関係作りに関しては模索している状態です。
 一方、夢宙センターは介助者と利用者とコーディネーター及びスタッフとの間でとてもよい信頼関係が出来ていて、その点をメインストリームの方が学びに行かせてもらったわけです。
 利用者・介助者の人数的にはうちの方が多いのでそれなりにトラブルが多くなる確率は高いのかもしれませんが、私たちに何かが欠けているのだろうということで、円滑に行っている夢宙センターのコーディネーターの松倉さん・神谷さん・桃瀬さんの3名の方に忙しい時間を割いていただきお話いただきました。夢宙センターには現段階では当事者のコーディネーターはいなく、3名の方は健常者スタッフです。

さて、当たり前で難しいのが信頼関係で、それは日々の積み重ねなんだと夢宙センターから学んだ訳ですが、まず夢宙センターのやり方の特徴として利用者がセルフコーディネートをすることがない。つまりコーディネーターが全部コーディネートをする。その際に利用者からどうしても介助者の好き・嫌いが出るが、それは認めない。ただ、なぜその介助者に不満があるのか理由をとことん聞いて、そして解決していくという方法をとっているという点。
 次に、月1回必ず事務所でお茶会をしている。その日は一日利用者も介助者も好きな時に夢宙センターの事務所に来て好きな時に帰る。一回出て戻ってくるもよし。参加も時間も強制しない。自由なお茶会をするようになってから、利用者・介助者・コーディネーター間で少しずつ色んな話ができるようになったとのことです。
 もう一つはコーディネーターが利用者・介助者双方の話を聞く時間をなるべく多く作るようにを心がけていること。それから陰口禁止令!!というのがあるそうで、介助者も利用者も何か不満がある場合、陰でコソコソ言うのではなく、必ずコーディネーターにこういうことが不満であるということを話すようにしているなどなど、いろんなお話を伺いました。
 メインストリームはコーディネートに関しては、現在はセルフで出来る人は利用者さんが自分で組んでいる状態ですし、それは続けていくと思います。その辺は各団体の状況ややり方があると思いますが、とにかくコミュニケーションを大事にするということをつい日頃の業務に紛れて忘れがちだった私たちですが、初心に戻るというか改めて考えさせられました。
 メインストリームの利用者やアテンダントの皆さんも、コーディネーターへご意見や、「ここはこうしたら?」などどんどん言って下さいね。
 
ビールをお供に他団体交流会やっちゃいました!

 まさに新年度が始まる4月1日、利用者スキルアップで企画した他団体との交流会を開催しました。利用者スキルアップではこれまでにも何度かこういう遊び的な企画(愛知万博・ビアガーデン・合コンなんてのもありましたね)をやってきた訳ですが、今回はメインストリームだけではなく、他団体の利用者さんやアテンダントさんとの交流をしようということで、大阪梅田・お初天神にあるドイツビールの店「ニューミュンヘン 北大使館店」で真っ昼間1時から2時間お店を借り切って総勢62名で盛り上がりました。
 他団体から参加してくださったのは、夢宙センター・ぱあとなあ・あるる・りんぐりんぐさん4団体の方々。メインストリームも含めて色んな団体の人たちと交流できるように、座席もあらかじめ決めておきました。最初はちょっとお互いに緊張しつつも、ビールを片手にカンパイをして、飲みが進むにつれ、あっちこっちで楽しそうな笑い声が聞かれました。みんなで色んな話をしながら、ビールに食事にと舌鼓を打ちました。このお店はドイツビールがおいしいのはもちろんのこと、若鶏の唐揚げがおいしいと評判のお店です。
 又途中からは最初の緊張もどこへやら、みんな自らジョッキを持って色んなテーブルを回ってそれぞれに交流を深めているようでした。
 すっかり打ち解けこれからもっと盛り上がりそうというころ、悲しくも時間切れで、宴会(?)は一応お開きにはなったものの、その後はそれぞれ仲良くなった人たちとお茶しに行ったり、遊びに行ったりと梅田の人ごみに消えていったのでした。
 他団体の人たちも楽しかったと言ってくれ、充実した春の一日でした。今後、団体の枠を越え、絆を深めていくための今回は第一歩。色んな形でまだまだ予断を許さない制度の行方のために団結していきたいと思っています。
 
ATTENDANT LINE

 メインストリーム協会には個性豊かなアテンダントがもりんもりん! そんなアテンダントさんたちを紹介する「ATTENDANT LINE!」今回はアテンダント歴4年の林さんです。
Have a nice ATTENDANT!
「アテンダントを始めて」

 私がアテンダントを始めたきっかけは、以前に登録していた有名百貨店専属の派遣会社で長期希望だったにも関わらず、短期の仕事しかなく、2〜3ヶ月仕事がないことが何度もあって「必要とされてないんだなぁ」と落ち込んだりしましたが、このままでは、いけない!とりあえず仕事!と思い、兄(ご存知の方も多いと思いますが、メインでスタッフやってる)に相談し、メインストリーム協会の面接を受けることになりました。
 そして訪問実習を受けました。でも「本当に私に出来るのかなぁ」という気持ちで一杯でした。それに体力に自信がないし、人の生活に合わせられるのか? 介助の仕事を覚えられるのか? 1対1で話が続くのか? などの不安要素ばかり頭に浮かび、アテンダントをするかどうかの最終確認の電話がかかってきたら、お断りしようと密かに思ってました。
 そう思っていたんですが、最終確認の電話より、先に訪問実習を受けた利用者さんから依頼があり、「私でいいんだ!」と、なんだか嬉しくなってしまい「はい、入れます!」と勢いでお返事したのがアテンダント生活の始まりだったように思います。今では、その時に勢いづいて良かったと思います。

 アテンダントを始める前の不安は「聞いたらいい」と言うのが私の中の強みになっていて、利用者さんとコミュニケーションを取ったり、介助スタッフやコーディネーターに相談することで、いい意味で楽に仕事が出来るようになりました。とは言うものの、自分から輪の中に入っていくことが苦手で、どうしていいのかわからなかったんですが、アテンダント研修会や海外の研修生から色々な人の話を聞くことで刺激を受け、今では自分の中に「考える」ということが出来てきました。またアテンダントで行った東京や大阪で行われたデモ(障害者の全国大行動)に参加することで障害者運動の必要性を実感することで、この仕事に関わってることに、やりがいや楽しみを感じることが多くなりました。これからもっと色々な人と出会って、色々なお話が聞けたらいいなと思います。
 アテンダントという立場で、どこまで出来るのか、まだまだ手探りですが、いい形でメインストリームの仲間でありたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。
 
只今、スタッフ見習い中!
  
坂出さん
 みなさん、こんにちわ。事務所で、よく笑っている坂出です。みっちゃんって呼んで下さい。私はメインストリームに来る前は、長〜いこと母親と二人で暮らしていましたが、やっぱり「自分の人生は自分の意思で生活をしたい」と思い、西宮の福祉センター内にある「のまネット西宮」で相談したことが、メインストリームとの出会いでした。その後、私のことを心配する母親と何度も話し合いを重ね、昨年の11月末に事務所2階の自立生活室を経て、今年の3月から西宮で自立生活を始めました。
 今はスタッフ見習い中の研修生ですが、スタッフになれたら、興味のあるピアカウンセリングや、自立する時に母親と何度も話し合った経験を生かし、頑張りたいと思っていますのでみなさん宜しくお願いします。
 
新!介助スタッフ紹介
  
楠くん
 4月から介助スタッフとして働かせてもらってます、楠佳和です。大阪生まれの大阪育ちで阪神ファン…ではなく、横浜ファンの22歳です。子供が好きで大学時代は幼児教育を勉強してました。3月に大阪から西宮で1人暮らしを始めましたが、まだ西宮で迷子に。それに介助スタッフとしてまだまだ未熟者で至らない部分は沢山ありますが、毎日が勉強だという気持ちを持ち、楽しく、元気にやっていきたいと思いますので、皆さんどうぞ末永くよろしくお願いいたします。

吉田さん
 こんにちは!4月から介助スタッフとして楽しく働かせて頂いています。私はとりあえず元気で、よく食べ、よく笑い、よく寝て、よく遊びます。人見知りせず誰とも仲良くなりたいので、私も話しかけると思いますが、見かけたら話しかけてもらえると嬉しいです。まだまだ慣れないことばかりですが、わくわくドキドキ、期待の気持ちでいっぱいです。自分のペースで毎日楽しくパワフルに活動していきますのでよろしくお願いします。

松島さん
 アテンダントを始めだし、気が付けばメインストリームに恋をして、4月から介助スタッフとしてお付き合いすることができました松島睦です。こんなにはまってしまうとは。というのが本音ですが、色んな事を学び、考えていくうちに…っていう感じです。お酒大好き、遊ぶの大好き、イベント大好きという事もあって色んな人とワイワイ、楽しみ沢山話をしていきたいと思います。気が付けばいつの間にか…になって頂けたら最高!よろしくお願いします。
山口くん
 はじめまして!最近トキメク女性が現れ自分でもこれからどうなるのか、とっても楽しみな山口孝章です。お酒と旅行と温泉とみんなでワイワイするのが大好きです。これからメインストリームの一員として誇りを持って、障害者が少しでも安心して生活できるよう社会を変えたいです!
 もちろん介助スタッフとしてもバシバシ頑張って行きますので、これかもよろしくお願いします。
 
新?介助スタッフ紹介
 
小谷くん
 介助スタッフになり、早1年がたち、ようやく通信に掲載される日が来た!入社の頃から薄々気付いていたのですが「介助スタッフ5期生」は存在感が薄いようです。でも元々薄いものは仕方ないですよね。さて学生時代にアテンダントをしていた私は、7年間の修行時代(サラリーマン)を経て昨年4月にアテンダントに復帰しました。その時は、利用者が抜群に増え、制度も大幅に変わり「障害者が生活しやすい環境になった」と実感したのですが、今はまた様々な問題が出てきました。そんな中ですが介助スタッフとして、メインストリームに関わる皆様と共に「やる時はやる」の心意気を持って頑張りますので、ぞよろしくお願い致します。

高田さん
 1年越しでやっと通信に載せてもらい、ようやく介助スタッフとして認められました。6期生は既に通信に登場していますが、5期生の私と小谷君は力不足なのか影が薄いのか分かりませんが、これから介助スタッフとして力をつけていきたいと思います。そして「みんなでつくるメインストリーム」をモットーに、さらにみんさんと関係を深めたいと思いますのでご声援よろしくお願いします。
 
つぼみのえとみ〜!
 
 この前まで連載されていた「つぼみのまっき〜!」は恋の花を咲かすことなくネタが切れ、つぼみのまま終わってしまいました。本当に残念でした。また恋の花が満開になった頃、再開したいと思います。
 それに代わって、つぼみシリーズ第2弾。「つぼみのえとみ〜!」まっき〜が咲かせなかった恋の花を咲かしてみせましょう!

 はじめまして江富です。知ってる人は知っている、知らない人は知らない、そこそこの人気者です。現在は、ミラージュ作業所に通所しています。自立生活を始めて4年目を迎えます!!これまで、いろんな体験をしてきました。いいこともあれば、悪いこともありました。

 私は、いろんなことをするのが好きで、例えば料理など、創作料理をつくるのが好きで今まで月1の割合でホームパティーをしていました。いろいろな人との交流をまじえ、アテンダントや介助スタッフの方たちと交流を重ねてきました。今は、ちょっと小休止させてもらっています。
ここらで、私のプロフィールをひとつ・・・
 1962年2月27日生まれ(戸籍上はどう言うわけか、1月生まれになっています)
大阪府生まれ、向三軒両隣が在日韓国朝鮮の方に囲まれて育ちました。学校は、良かったのか悪かったのか分かりませんが養護学校の試験に落第し、小学生を浪人。珍しい経験をしました。けれど親の働きかけにより、普通学校に通えるようになりました。これは本当によかったなと思っています。
 私はませた小学生で、そこそこ年配のかたならご存知かと思いますが、11PMという深夜番組を見るのが大好きでした。親が見ていると、盗み見して、とにかくエロい子供でした。それは、今でも変わりませんが(笑)
 私は泳ぐことが好きだったので夏になるとプールの授業が待ちどうしかった。普通学校といっても、養護学級だったので月に一度長居スポーツセンター身障者スポーツセンターというところで泳いだり、今で言うリラクゼーションのような作用があり緊張がほぐれ、とてもラクに過ごすことができ、自立してからも福祉センターのプールに通ったりしています。それが講じて、一昨年に沖縄に行きスキューバーダイビングを体験してきました。本当に開放されて、別世界にいる感じでした。自立してかから、これが一番楽しかったことです。
 まだまだ、私のことを知らない人も居るかもしれませんが、これからもメインストリーム通信の中で、私のことをお話したいと思います。今後ともよろしくお願いします。

今回の「つぼみのえとみ〜!」は、おしまい! また次号お楽しみに。
 
 

 07年5月17日の早朝、利用者の川原さんが天国へ行かれました。メインストリーム協会一同ご冥福をお祈りすると共にこの文集を故人に届けたいと思います。本来なら川原さんに関わったすべての方から川原さんとの思い出をお聞きしたかったのですが、今回はスタッフを中心に綴らせて頂きました。
 
青井さん
 川原さんとは映画の話をよくしました。川原さんは、たくさん映画を見に行っていて「『○○』見に行ったんですよね、どうでした?」って聞くと、「よかったでー」と、いつもお決まりの返事をしてくれました。一度、川原さんと神山さんと私で『涙そうそう』を見に行く約束をしました。どこの映画館にしようか相談していて、「ミント神戸、私まだ行ったことないです!」てことから映画館は、ミント神戸に決まりました。
 当日。ミント神戸に約束の時間に来たのは私1人だけでした。神山さんとアテさんと川原さんは一緒に来てたのですが、なぜか三宮駅ではぐれ、神山さんだけが到着してしまい、神山さんのアテさんが探しに行きましたが、見つからない、とのことで電話で「今どこ?」「ダイエーの前」「行き過ぎてます!」と、何度も場所の説明をしたのですが、うまく伝わらずで、開演時間はどんどん迫ってくるしで、「人に聞きながら来てください」と言い、前もって買っていたチケットを売り場の人に「黄色の電動車イスに乗っている男の人が来たら、渡してもらえますか?」と託し、私たち3人は、ぎりぎり映画館に入りました。
 せめて予告編の間に間に合えばと思っていたのですが、結局、川原さんが到着したのは、本編始まって10分経ってからでした。だいぶ長いこと迷っていたみたいです。「残念でしたね!」というと、「しゃーないわ」と淡々としてはりました。
 終わってから川原さんが「ここ結構おいしかったでー」というオムライス屋さんで、川原さんと神山さんのアテが似てる! おじいちゃんと孫みたいやーっていう話で、わいわいご飯食べました。ハプニングが起こったけど、ほのぼのと楽しかったです。
 「また映画行きましょう!誘ってください!」「またええ映画探しとくわー」って言っていたのですが、なかなか予定があわず、その一度きりしか一緒に映画行くことができませんでした。
 今でもミント神戸に行くと、あの時、川原さんなかなかこ来んかったなーとか思い出したりします。川原さんの分まで、これからもたくさん映画見ていきたいです。川原さん、楽しい思い出をありがとうございました。


青木(ち)さん
 川原さんとは、アテンダントに入ったことも、個人的に遊んだこともありませんでした。けれど事務所に行くと必ず会えていたので、話すことはよくありました。写真をとってくれたり、フォルクスの割引券をくれたり、いつも突然なので、ちょっとびっくりするけど、うれしかった思い出があります。しかし私にとっては事務所での川原さんより道端で会う川原さんというイメージが大きいです。アテンダントへの行き帰りなどによく見かけていました。私はバイクなので声をかけることはあまりなかったのですが、追い越したり、すれ違ったり。最初の頃は寝ている川原さんが心配で見に行ったこともありました。そのうち、慣れてしまって「今日も気持ちよさそうだな〜」と思うようになっていきました。
 これまで川原さんと日常的に会うことが少なかったからか、今でも道端で会える気がします。メインで集まっているときなど川原さんがいないのがまだ不思議です。


青木くん(ひ)
 川原さんとの思い出はいろいろあるんですが、イベントとかよりも先に、初めて「あおちゃん」って呼んでくれた時のことを思い出しました。初めて会ったときにスタッフと利用者の関係もあってか「青木さん」と呼ばれてました。ある日事務所に行ったら、いきなり「あおちゃん」と呼ばれ「レモンティ飲ませて」。事務所でも一部の人しか「あおちゃん」と呼んでなかったので、そんなあだ名を誰から聞いたんかと思いましたが、間違いないことはそれ以降一段と仲良くなりましたね。ホントに些細なことなんですが、その事を思い返すたびに川原さんは人と仲良くなるのがうまかったよなぁって思います。たぶん天性なんでしょう。その天性の才能によって川原さんと仲良くなれたことに感謝しつつ、ご冥福をお祈りします。それにしても、あの舌を出した川原さんの顔は忘れられへんなあ。


井内さん
 「写真だしてや!」いつもそう誘ってくれましたね。「出せるほどの写真がないの〜」などと言って気が引けている私を毎年毎年春になると誘ってくれました。
 だんだん動きにくくなる体にめげる様子もなく、写真を愛し、撮り続けていた川原さん。一度だけ、私が撮った写真を見てもらったことがあります。去年の夏、台湾に行った時のものです。「うん!ええやん!空が生きてる!」貴方にそう言われた時、私はヤッタ!とバンザイしました。誉められたことはもちろんだけど、空のすごさ、美しさや写真の面白さを共有できた気がして凄く嬉しかった。それから最後の最後、私に一緒にカラオケで遊ぶチャンスとお見舞いに行くチャンスをくれたこと。本当にありがとう。川原さんの散歩姿はクラゲ?のように悠々として大好きだったけど、唄う姿もバツグンにシブく貫禄がありました。
 空の向こうに行っちゃった川原さん「いつ死んでもええように生きなあかん!やりたいことは今やらなあかん!」と言ってくれてるような気がします。いつか“生きてる空”の上で会いましょ、ね!それまでスッタモンダ生きてる私達を見ていてね。またね、川原さん!


井上くん
 今年の正月、僕が最後に川原さんのアテに入ったときの話をします。ここには何も心温まるエピソードやドラマティックな出来事があったわけではありません。けれど、ここに記録しておかないと時間にさらされてやがて記憶すらなくなってしまう、そんな小さな日常が積み重なって僕らの毎日は成り立っているとしたら、なんでもない日常こそ、覚えて残しておきたい。そんな気持ちになっています。
 特別なことがあったとすれば、元旦、今年一発目の仕事だったことぐらいです。一年の中でも大晦日や正月を誰と過ごすかというのは利用者にとっても介助者にとっても、どこかいつもとは違った時間ではないでしょうか。僕は川原さんの介助に定期で入ってなかったので、今年の正月はとりわけ記憶に残った一日でした。
 そんな元旦の一日は本当に何も起こらなかった一日でした。川原さんは大晦日を毎年恒例の神戸で過ごし帰りはかなり遅かったそうです。一緒に行ってた泊まりの宇佐君と交代して「もうちょっと寝とくわ」という川原さんの横で、新聞を読んでました。「川原さん、起きたら初詣行こね」と声を掛け、「うん」と応えてくれたものの、結局この日夕方まで川原さんは起きませんでした。昼に弁当を食べると僕も眠たくなって来ました。TVで点の入らない天皇杯を見ていると知らない間に眠ってしまい、終了間際の歓声で目を覚ましました。川原さんが「餅、食べや」。焼いて食べる餅かと思ったら、あんこの入った大福でした。その大福を頂いて、しばらくまたボ〜としていると暗くなり交代の大山君が来ました。晩ご飯をどうするかと訊いたら適当にすると言うので、大山君が来てるんやから何かおいしいもん作ってもらいって言った様な気がします。大山君は冷蔵庫を開けて献立を考えていました。
 こんな風に本当に特別なことはありませんでした。それでもこの日帰って自分がどう過ごしたか、翌日はどんな日だったかは思い出せないのに、この一日だけは不思議に鮮明に記憶に残っています。多分これからも忘れることはないでしょう。


上田さん
 思い出は、『ただ君をあいしてる』という映画を見に行った時のこと。せつない話で、終わったあと川原さんに感想を聞いたら『あんな愛もあるねんな』とボソっと。
 そのあと『ぼくんち来るか?』とお誘いを受け、川原邸におじゃまさせてもらい、カメラについてあれこれ教えてもらいました。川原さんの生い立ちなんかもいろいろ話してくれて…なんだかとても居心地のいい時間でした。川原さんと過ごす時間はゆっくりで、特別な時間だったなぁと思います。


宇佐くん
 川原さんとは2、3年の付き合いですが、僕にとって初めて経験する時に側にいてた重要人でした! 例えば、僕が初めて海外旅行に行った時は川原さんのアテで上海に行きました。一緒に行こうって誘ってくれなければ、僕は海外旅行の良さをまだ知らなかったかもしれません。お正月を年末から年始にかけて飲み屋さんで過ごしたのも川原さんが誘ってくれたからです。正月を一緒に迎えた利用者さんも川原さんが初めてでした! こんなに一杯の初めての経験を得るチャンスを作ってくれた川原さんは僕にとって、僕の中の人生を何割か占めていました。今は言葉ではなく何かが抜け落ちた一部として身体で感じます。僕の中で僕と川原さんの人生が無くなってしまいました。でも寂しくはありません。人は死ぬってことを最後に僕にリアルに体感させてくれたのも川原さんだったからです。寂しさよりは何か違う気持ちを感じました。僕自身がまだ処理に追いついてないので何かはわかりませんが、寂しさとは違う気がします。この気持ちがどんなものなのか解った時に川原さんに伝えれないのが残念ですが、また新しい経験したことのないものを貰ったんで、有難うって言いました。




広島、行ったな。
   あと、どこ行きたかったかな?
        「スイス」って言うとったな。川原さん。


江富くん
 最初に川原さんと出会ったのは2002年のILPでした。当時は、まだお元気で電動に乗っており、ピアカンネームが「ガメラさん」で印象深かったです。自立してからも川原さんとはいろんな所でご一緒させていただき、博学だなと思いました。最近は、体力的にも不具合が生じ、ちょっと気になってたんですが、ミラージュにこられる度に色んなお話をさせていただき、もっと川原さんと関わっていれば良かったなと思います。ダンディーな川原さんがいつまでも僕の心の中に生きてます。 


沖田くん
 川原さんと会ったのは、今から五年前だったような気がします。初めてメインストリームの事務所に行ったときに、首からカメラをぶら下げて阪急の高架下でお昼寝していました。その後、メインストリームで活動するようになってからも規則正しく事務所に現れ、外を散歩してお使いをのんびりこなして、その辺でお昼寝していたことを思い出します。土曜日も必ず現れ、雨の日は電話で「かわはらー、今日、やすみー」と連絡があったりと独特の存在感をかもし出してたことが、鮮明に記憶に残っています。映画と吉永小百合と洋平が好きで、いつも事務所で見かけた人がいなくなるのは寂しいものです。しかし、今まで培ってきた独特の存在感は、今でも心の中で生き続けています。向こうでものんびりマイペースでやっててください。


太田くん
 川原さんに出会ったのは僕が17歳の時でした。高校を卒業してからでは施設に入る席がないってことで、高校3年生の2学期から宝塚の山奥にある「希望の家」へ入所したとき、同部屋にいたおじさんが川原さんでありました。当時「希望の家」では高齢者が多く、17歳のガキの僕を相手にしてくれるのは川原さんくらいでした。消灯時間を過ぎ、指導員に注意されても川原さんの話はやむことなく、カメラの話・デザインの話、人生といろんな話を僕に聞かせてくれました。いつしか川原さんとは、事務所から頼まれた事務作業も一緒にやるようになったり、お正月が近づくと入所者から注文を取っては、二人で買ったプリントゴッコで年賀状作りをしたことを思い出します。施設の生活は4年半でしたが、川原さんと常に一緒だったので喧嘩もしましたし、施設の方針にも疑問を持ったときは二人で抗議文を提出し、施設長から「生意気なことを言うな!」とボロかすに怒られたりもしました。そんなときも川原さんは怯まないで「自分の人生は自分で切り開いていかなあかんのや!」の言葉を、僕に何度も問いかけてくれ若いながらにも心に強く響くものがありました。
 僕が施設を退所する前夜に「太田君は、こんな所にいたら駄目や!とにかく何でもやってみぃ。そして人生を自分で切り開いて頑張るんやで!僕がちゃんと観ててやるから行ってこい!」と川原さんが言って下さったのを今でも覚えています。施設を退所したあと、僕が自立生活を始め、たまたまメインストリームへ向かう道で川原さんと再会するまでの間だけは一緒ではありませんでしたが、この20年間で語り尽くせぬ思い出は誰にも負けないぐらい溢れて文章に書き切れません。まだ永眠された実感もないため、思い出に変わるまで時間がかかりそうです。
(川原邸から発見された、施設時代の太田君。捕ったの川原さん?)


廉田くん 
〜川原さんとの心にのこる会話〜

〔一緒に行った台湾旅行後の会話〕
カドタ:台湾旅行楽しかったなあ。
川 原:楽しかった。
カドタ:夜中まで飲み歩いたけど、体大丈夫やった?
川 原:大丈夫やぁ〜。
カドタ:ほな、また行こなあ。
川 原:ありがと。
    これカドタさんに台湾のおみやげ。
カドタ:ええっ、おれに?
  (ぅん、そ、そんな話…したな。)
〔川原さんがヨーダになった時の会話〕
カドタ:「スターウォーズ」に出てくるヨーダって知ってる?
川 原:わからへん。
カドタ:川原さんにヨーダになってもらわなあかんねん。
川 原: ・・・。
カドタ:顔を緑色に塗らしてもらうでえ。ちょっと、じーっとしとってよ。
川 原:濃いにせんとってな。
カドタ:うん、わかった、わかった。おおっ、ええ感じになってきた。完全にヨーダやわ。せっかくやから、もうちょっと、完璧にさせてな。
川 原:あの・・・。
カドタ:どうしたん?もうやめとこか?
川 原:チューハイ飲みぃー。

〔恋愛の会話〕
カドタ:川原さんの好きなタイプは、芸能人で言うたらだれ?
川 原:吉永小百合。
カドタ:川原さんは恋愛経験あるん?
川 原:あらへん。
カドタ:でも好きな人はおったやろ?
川 原:おらへん。
カドタ:おらへんことないやろう。
川 原:おらへんのや。ぼくは、好きにならへんのや。
    ぼくが好きになったら、相手の人も苦しむやろ。悩んで苦しむやろ。
    そやから、好きにならへんのや。


神山さん
 川原さんが自立するために利用登録に来たとき面接をさせてもらった。もう8年くらいになるかな。自立してからは毎日事務所にいて当たり前で、皆勤賞もので週末も事務所にいてそばにいて当たり前の存在だった。個人的に何度か映画に一緒に行ったこともあるし、今はほぼ廃部になったが同じ写真部に所属し、そこでもなんだかんだ声をかけてもらった。あの事務所に川原さんがいないなんて信じられない。 日常の川原さんを書こうと思う。やはり浮かんでくるのは日々の小さなことだ。みんな知っていると思うが川原さんはお茶目。私はよく川原さんにおちょくられた。川原さんは大抵事務所の入口附近に電動を止めてじっとして(ときには寝て)いた。事務所のトイレは入口の横にあるので、トイレの前は川原さんの場所だった。私がトイレに行こうとすると、川原さんによく通せんぼされた。私をチラッと見て川原さんは「どいてほしい?」と聞く。うん、と答えると、とても嬉しそうにニヤッと笑って「いやー、通したらへん」と言う。ちょっと余裕があるときは、腕を伸ばして通せんぼしていた。それで「通してお願い!」とか言っていると「しゃーないな」とまた笑って通してくれる。これを一日一回はやっていたと思う。亡くなるまでの数ヶ月、川原さんは体調が悪く、手動車イスに乗っていて、自分で車イスを動かせなかったのでこの通せんぼはなかった。
 私は、最後のお別れに行けなかった。だから実感が無い。今度事務所に行ったら川原さんが毎日来ている気がする。土曜の電話当番も川原さんが必ず事務所に来ていたので、ボソボソと話をして寂しい思いをせずにすんだ。事務所の自動ドアは風などにも反応して勝手に開く事がある。これから、誰もいないのにドアが開いたら川原さんが来たんだなと思うだろう。トイレの前にやはり座るんだろうか。また通せんぼしてね。


岸田くん
 僕の初めて入ったアテンダントが川原さんでした。一緒に遊びに行く事が多く映画館にはよく一緒に行きました。あと季節的な物で、夏は花火、冬はルミナリエを見に行くということが3〜4年続いたこともありました。
 年末を一緒に過ごした事も何度かあり、オムツを代えてる途中に新年を共に迎えたこともあります。そんな川原さんのアテでは、よくコーヒーをご馳走になることがありました。普段アテンダントに指示をするときは「〜してー」「〜して下さーい」とか言うのに、コーヒーを勧める時だけ「コーヒー飲め〜」と命令口調になることにびっくりしました。でもそれ以上に、言われてびっくりした事は、抱え上げをする時に「抱いて〜」と言われたことは、今でも忘れられないです。いつもアテンダントの事を思いやり「あんたらがいないと僕は生活できへんからなぁ」と言ってくれた素敵な利用者川原さん。どうかこれからも笑顔で見守っていてください。


桐間くん
 川原さん、いつもアテが終わり事務所に帰ってくると川原さんがいてくれました。今だに川原さんが郵便を出して帰って来るんちゃうかなって、思ってしまうぐらいで、ボクは川原さんとの付き合いは一年ぐらいしか無いですがボクの中ですごく存在感の大きな人でした。安らかにお眠りください。川原さんありがとう。


楠くん
 川原さんとはあまり長い付き合いではありませんが、その中でも特に思い出に残っているのは、五月に出かけた広島旅行での合唱で一緒に唄った事です。ホテルの横のさら地で真っ暗な中、携帯電話の明かりを頼りに「明日があるさ」の替え歌を佐藤さんお手製の歌詞を見ながら一緒に練習し、本番で一緒に歌い、大成功したことが今でも楽しかった思い出として残っています。少しの間でしたが同じ事をし、話せる機会を持つことが出来、本当によかったと思っています。


     合唱コンクールでメンバーと


康さん
 ある夕暮れ、事務所を出て駅に向かって歩いていると、川原さんの後ろ姿が見えた。お疲さま!と呼びかけたら、「きれいヤで、見てみィ!」「金星!ホントきれい!」空を見上げるのは久しぶりでした。そのことを伝えると、「空はええでー、星もきれいヤでー!」しばらく二人その場にたたずんでいました。それ以来、帰り道には空を見上げるようになりました。川原さん、いまごろ星と遊んでいるのかな。


小谷くん
「NANAの巻」
 正月早々、川原さんと映画を見に行くことになりました。川原家で何を見ようかという話をしていたら、ちょうどTVで「007」のCMが。川原さん、007どう? 「ええなー。」
 そうして映画館に到着。007やってるやん、007でええ?
「ナナ見る!」
 えー、007の7(なな)のこと? 「ナナ見る!」
ふと掲示板を見ると「NANA2」の文字。まさか!ひよっとして「NANA2」のこと?
 「そうや」 えー、ホンマに「NANA2」見るの? 「ええで」
 そうして、川原さんと2人きりで「NANA2」を見ることになりました。映画終了後、面白かった?と尋ねたら、「わからんかった」との答え。そりゃそうだよなー、と思いながら帰っていきました。
 後日、アテの羊平ちゃんにその話をすると、「あー、僕泊まりのとき毎週NANAのアニメ見てますからねー。」とのこと。い、意外とかわいい!そんな川原さんのお茶目な一面を発見してしまった一時でした。


坂口さん
 森下町  黙って微笑む  焦げた肌


坂出さん
 私は川原さんとは、あんまり会う時間がなかったので、あんまり思い出ということはないのですが、いつも事務所で優しそうなおじさんだと思っていました。一緒に行ったカラオケで楽しそうに歌を歌っているところが今も浮かんできます。安らかに眠ってください。


佐藤くん
 川原さんのお通夜のあと、川原さんの弟さんと話をしていたら「僕が知っている兄は、ずっと家の中にいて、あまり話さない、笑わない人だった」と。普段事務所にいる川原さんとはまるで違うイメージだった。そう言われて、川原さんがはじめて事務所に来た時を思い出した。天気の良いある日の午後、太田君が品の良いおばあさんと、車いすに乗ったおじいさんを事務所に連れてきた。品の良いおばあさんは、太田君とうちの子どもは前に同じ施設にいて、今日、道を歩いていたらバッタリ会ったんです。太田さんはいまどうしているのかと聞くと、一人暮らしをしていると言い、一緒においでとここに連れてきてもらったのです。
 子どもというのは、どうやら隣にいるおじいさんのことのようで、ずいぶん年配の子どもだった。廉田さんが丁寧におばあさんの話を聞く。
おばあさん:「ここはどういうところですか?」
廉田さん :「重度の障害者を一人暮らしさせるところです」
おばあさん:「そしたら、うちの息子も一人暮らしできますか?」
廉田さん :「できますよ」
 横で二人の会話を聞きながら、隣にいるCPらしきおじいさんをチラッと見た。まったく何も話さない。人形のように無表情。それに年はかなりいっているようだ。何も話さない障害者は良くいるけど、うちで自立した人でこんなにおじいさんは初めてだ。いまから自立できるかなぁ、ちょっと無理なんじゃないかな〜と心の中で思っていた。
 それからのことは良く覚えていない。とんとん拍子で2階の体験室に引越してきて、なんとなーく、事務所にいつもいるようになった。特に自分から何か話をすることもないが、嫌でもないようで、静かにエレベーターの前にいた。徐々にみんなとも仲良くなって、たまにボソッと面白いこと言うから人気がでて、いつの間にか事務所に川原さんがいないと「今日は透析だったかな?」と考えるようになっていた。
 川原さんは付き合いが良いから誘ったら何でも参加した。障害者の大会で秋田に行ったり、職員旅行で海外に行ったり、自立支援法のデモで東京に行ったり、西宮市との介助制度の上限撤廃運動の時は毎回欠かさず交渉に参加していた。
 僕らが知っている川原さんは、毎日郵便物を出しに行ってくれて、写真を撮るのが好きで、付き合いが良くて何にでも参加し、僕が東京から帰ってくると「佐藤君お帰りー」といつも声をかけてくれて、障害者手帳の写真がメッチャ可愛くて、良く笑う人だった。53才で自立して今週の土曜日(6月9日)に60才を迎えるところだった。60才の誕生日には、赤いちゃんちゃんこを着てお祝いをしようってみんなで話をしていたし、本人にそう言ったら嬉しそうに笑って「うん」と言っていた。
 川原さんの人生最後の7年間は、道ばたで太田君に偶然会ったことで大きく変わった。人生は偶然の積み重ねだと良く言うが、川原さんをみていたら、本当に偶然の出来事で人生が大きく変わり、まわりの人の印象が全く違うくらいに人間性も変わった。川原さんがはじめて事務所に来たとき、廉田さんがお母さんに言った「自立できますよ」という言葉に、ちょっと難しいんじゃないかなと思った自分は、未熟だったなと思う。誰でも自立できるんだよと、
川原さんが教えてくれたのだと思う。  


下地くん
 私が印象に残っている川原さんとの思い出と言えば今年3月に行われた「懐かしのカラオケ」が記憶に新しく強く残っています。この日18〜24時まで阪神西宮駅近くのカラオケ屋で1960年代、1970年代の曲以外は歌ってはダメという企画でした。
 最初に歌い始めたのは、康男さん、マッキー、太田君、畑君、江富さんというような順番で、この面子、全員言語障害があるはずなのに歌っている時は不思議なくらいクリヤーな言葉で曲を歌いこなしてました。そしてなんともいえないぐらいシブイ声で“しのび会う恋をつつむ夜霧よ”と歌い出す川原さんでした。『夜霧よ今夜も有難う』という石原裕次郎が歌っていた曲です。このとぼけた顔したオッサンのどこからこんな良い声が出てくるのか誰もがビックリするぐらいでした。少しオバーにいうなら“しのび会う恋をつつむ夜霧よ 知っているのかふたりの仲を”ここまでは石原裕次郎に似ているけど、その後は、やっぱり川原さん。2番の“夜明けの街にうるむ夜霧よ 知っているのか別れのつらさ”まで石原裕次郎でその後はやっぱり川原さんでした。そして5月、2回目の「懐かしのカラオケ」の時も『夜霧よ今夜も有難う』を歌い、坂本九の『上を向いて歩こう』を上手に歌いあげてました。ただ曲に合わせてそうしていたのかどうか知らないけど、首を固定するカラーを付け天井を向いたまま歌ってたけどしんどくなかったんかな。
 そんな川原さんが地域での自立生活を実現したのは1999年の春。アテンダントの使い方やシステムの説明をしたら一発で『うん、わかった』の一言。この人、52という歳のわりには飲み込み早いな〜と思っていたら、一人暮らしが始まった数日後『今日のアテだれ〜?』○○君じゃないのって聞いたら『この間、休むいうとったで〜』、「川原さんそれ早く言ってよ」、『ごめん今思い出した!』そんなやり取りを何度か繰り返し真剣に怒ったこともありました。
注意したり、怒ったりした甲斐あって川原さんが完璧な利用者になりましたなんて間違っても言えません。けど、このオッサンはいつの間にかスタッフやアテンダントのみんなにそれが「ワシの個性や」と思わせるようになっていたのは最強の利用者だったかも知れないと今思います。少なくても自立生活を始めてからは人生を思いっきりEnjoyした利用者であることは間違いないと思う。


高田さん
 わたし、あまり川原さんとからみがなくて、思い出すのは事務所で「イヤホンつけてー」てゆわれた事と、道端で寝ていた川原さんを無理矢理起こしたことぐらいです。ちなみにその時は「郵便局行くんや!」って言ってました。でも振り返ったら、またそこで寝てました。行けたかな? 郵便局。


玉木くん
 確か川原さんが一人暮らしを始めたのは、53歳の時やったかな?最初は、お母さんと一緒に半信半疑で俺たちの話に耳を傾けとったけど、いつの間にか「僕やってみる」と言った気がします。たぶん、むちゃくちゃ不安もあったやろうけど、気がついたら自立していた感じです。なんか、うれしかったなぁ。50歳過ぎても一人暮らしができるんやって。そんなこと考えながら勝手にウルウルした覚えもあります。透析もしとったし、身体の機能も少しずつ低下してきとったから、だいぶんしんどかったと思うけれど、付き合いがむちゃくちゃよかった川原さんは、何かに誘うと「行くー」と即答してた「いかすおっちゃん」でした。
 ここ1年くらいは、身体も「痛い痛い」っていうてて、姿勢もちゃんと定まらずに困っていましたね。それでも毎日メインの事務所に来ていました。たぶんスタッフの誰よりも皆勤賞です。だって、土曜日も毎週来ていたのは、あなただけでしたから。よっぽど居心地がよかったのでしょうか?今も毎日来てくれている気がしています。それだけ存在感の大きな人でした。
 最近では、「わからへん!できへん!やっとって〜」という言葉も多く、その度に自分で考えなあかん!ときついことを言うことも増えていたような気がします。でも、それが川原さんの「自己決定」やったのかもしれませんね。でも俺ら若僧やから狭い自己決定に川原さんを当てはめようとしてたかも・・・反省しています。やっぱり、どんな状態になっても地域で生きていけるよう俺らは考えていかなあかん。そういう仕組みを作らなあかん!改めて川原さんの生き方を少しだけ見せてもらった者の決意です。そんなことなど気付かせてもらってありがとうございました。
 人生「おもろかった」ですか?たぶんこれからも「おもろいこと」は、いっぱいあると思います。これからは、もっと自由です。だから、行きたいところにいっぱい行ってみてはどうですか?写真もいっぱい撮ってみたり・・・いいですねぇ。そして、たまには事務所にも遊びに来てくださいね。いつでも開けて待ってます。 ほんなら、気をつけて行ってらっしゃい。


中尾くん
 今から3年くらい前、僕がまだ伊丹でラジオの仕事をしていた時、生放送中のサテライトスタジオの前に突然川原さんと濱名さんが現われました。その時はさすがにビックリして、思わず川原さんの名前を叫んでしまい電波に乗せてしまいました。その後しばらくスタジオの前でラジオを聞いてくれていたのか?寝ていたのか?よくわかりませんが、30分程したらいなくなっていました。川原さんは僕が本当にDJをやっていたんだと知っている数少ない証人でした。


中来田くん
 川原さんは、写真撮るときには絶対に欠かせない存在でしたね。良い顔してくれます。写真好きやからかポ−ズがうまい!ヤクルトくわえ飲み!得意のペコちゃん顔!色んな写真撮らせてもらいました!ありがとう☆
 川原さんは基本、自由人でした。車を気にせず道路で昼寝。遊びに行くのは人任せ。「どっか、連れてって〜!」よく聞く合言葉。こんな全部が川原さん。メインストリ−ムのことがすごい好きな人でした。今月は川原さんの還暦パ−ティ−!まだまだ川原イベントいっぱいあるぞ〜!




中川くん
 川原さんとの出会いは、僕がまだ京都の施設にいる頃、ILPに参加するため西宮の福祉センターに来ていたときでした。その時、川原さんは「今、事務所の2Fの自立体験室にはいっているんや」と話してくれ、僕も京都から西宮に出て自立したら遊びに行こうと約束しました。そんで、なんで川西に遊びに行ったかは忘れてしまいましたが、川原さんと2人で川西をブラブラしてたとき、時折、気に入った路地裏などがあると「ちょっとまって!」とシャッターを切っていました。その姿が僕にはプロのカメラマンのように映りました。


中林くん
 川原さんと一番長く一緒にいたのは、去年の職員旅行での韓国でした。2泊3日間一緒だったのですが、韓国での初透析へも行きました。透析に行く前から、いろいろ行きたいところを考えたのですが、透析の後疲れてホテルの周りしか見てまわれなかった時もすごく楽しそうでした。この時に思い通りにいかなくても楽しく過ごしている川原さんを見て、さすが川原さんやなぁと思いました。カジノにも行く予定が、結局行けず終いでしたが夜、川原さんが寝る時に(11時くらい?)「バヤシくん、カジノ行ってええでぇ。」と言ってくれたのを今でも覚えています。カジノには行きませんでしたが、少し自由な時間もすごせました。こういう川原さんのやさしさを今でもすごく大切に感じています。


中原(た)くん
 2年ほど前かな、アレグリアっちゅうサーカスをみんなで大阪へ見に行こうとした時の話やけど、川原さん(アテさんのこと)が心配で1ヶ月前に「川原さん、○日○時〜やから、アテさんに時間変更しといてね!」とお願いしたんです。でも、してくれてなくて。それでも根気よく10日前、1週間前、3日前と確認したのですが、してくれてなくてとうとう前日に。しかしこの日は返事が違いました。「わかった!今から連絡する!」(川原) 正直、やっとかい!とも思いましたが、あ〜、よかった!このシリーズ初めての安心したのを今でもよく覚えてます。その数時間後、心配なのでもう一度確認。連絡したかな?「した!」(川原)僕はこの1ヶ月、この一言を待ってたんや。ってなわけですよ。普通は。
 が、当日、出発してないといけない時間に、まだ事務所にいる川原さんを発見!慌てた僕は、なんでえ! もう間にあわんで! アテさんは? 昨日連絡したやん!「昨日、電話したけど、アテさん出なかったんや!」(川原) 僕は返す言葉がありませんでした。川原さんが続けて「誰かが○時で間に合うって…。」 それ誰が言ったの?と聞くと「わからん!」(←川原さんの最終兵器、コレ最強!)
 僕は、さすがに呆れたっていうか僕が1ヶ月も前から確認していたのに、昨日誰が言ったか分かれへん人の言うことは聞くってことにムカッとして取り乱してしまったんです。そしたら川原さんも怒って「もう、ええ!」って。
 僕の耳にはあの時の川原さんの力強い「もう、ええ!」が今でも響いてるで。


中原(と)さん
 私の家には目のくりっとしたフレンチブルドックの黒豆という犬がいます。ペットショップで見つけたとき「あ〜、川原さんそっくりや」って嬉しくなり飼うことにしたんです。店員さんに名前は「川原さんじゃないですよね?」と笑われたのを思い出します。夕方、黒豆の散歩に行くと、よく阪急沿線の風が通る涼しい所で、夕涼みをしてる川原さんに会いました。川原さんと黒豆が車イスの横でチョロチョロしている光景がとても可愛かったです。
 私も年2・3回、アテに行きました。朝食のパンにヤクルト、果物を食べながら朝ドラ、写真のこと、美術館の話をのんびりしました。すごい、いい時間でした。私の病気のことも気にかけてくれていて「無理したらあかんで〜」「気、付けや〜」すごく嬉しかったです。優しくて、ちょっと照れ屋で、頑固なとこもある川原さん、今もどこかでみんなを見て、ベロ出してニヤッとしてるような気がします。


菜畑さん
 私が川原さんと、お会いするのは事務所かイベントの時でした。私が「体調はどう?」とお聞きすると「大丈夫! ありがとう」の 返事をして下さってました。川原さんのありがとうは、私自身、癒されるような不思議な感じでした。広島旅行の時、大和ミュージアムで買われた海軍風の帽子をかぶられた川原さんに「よく似合ってるやん」と言ったら、『そうやろ!』と、はにかんだ笑顔がわすられません。 川原 さんありがとう!


畑くん
 川原さんが亡くなって10日以上になるけど、本音を言うと実感がわかない。なぜだろう?俺が今住んでいる市営住宅に1年半前に引っ越してからというもの、メインかミラージュでしか合っていないことについ最近気づいたからかな。引越しする前は俺の家の2件隣に住んでいて、よく川原さんが砂利道で電動車イスに乗って寝ている姿、雨が降っても風が吹いても、俺が昼近くに家を出てメインに行く時に川原さんは外に出て、よく空を見てましたね。「今日はえぇ天気や!せっ洗濯日和や」とかいろんな事を言ってました。俺がメインから夕方頃家に帰ってくると川原さんは昼にいたところと同じ場所にいて、俺がまだそこにいるんですか?」て聞くと川原さんは「そうや!えぇ空してるやろっ」て言ってた事が懐かしいです。 今も川原さんは『空』をみながらキャップ被って寝てるんだろうなぁ。。。


林(と)さん
 私はメインに入りたての頃から、結構長い間、川原さんをメインのスタッフだと思ってました。スタッフじゃなく、毎日、事務所に来てるおじさんって聞いた時は、本当にびっくりしました。私が事務所に来た時は、必ず声をかけてくれました。
 川原:「ともみちゃん!元気か?」
 智美:「はい!元気です!!」
 川原:「うん。」

 川原:「ともみちゃん! 林さんどこかな?」
 智美:「えーとお兄ちゃんのことは、
     知らなくて、今どこですかねえ?」
 川原:「うん。」

 川原:「ともみちゃん!ペコちゃん知ってるか?」
 智美:「はい、知ってます!!」
 川原:「じゃあ、ええわー」
 智美:「えっ!? いいんですかぁ?」
 川原:「うん。」
 という感じで、会話はそんなに続くわけではないんですが、「ともみちゃん!」と呼ばれる度に楽しみになっていたことが、私の中では川原さんの思い出になっています。心残りなのですが、今思うと、あの時ペコちゃんを知らないと言ったら、ペコちゃんの顔をしてくれたのかと思うと、残念なコトをしたなーと思います。


林(り)くん
1 真夜中に電話で寝返りさせてーの話
 そのときは、真名野君がお休みをとっていたので川原さんのコーディネートを一時預かっていました。電話で「かわはらー。たすけてー。」と呼び出されるのは時々ありましたが、今回は深夜3時過ぎでした。川原さんからの電話で「寝返りさせてー。」と、毎日泊まりのアテが入っているはずなので、ちょっとビックリして「アテは?」と聞くと「起きてくれへんねん。」仕方ないので、すぐに川原さんの家に行って寝返りさせて「頑張って起こさなあかんやん。」というと、「わかった。」と返ってきたので、帰る用意をしていると、「かわいそうやから、起こさんようにしたってやー。」と、泊まりのアテさんを起こさないようにと気遣う優しい川原さんがいました。

2 関西空港で指差し会話帳を買った話
 職員旅行で韓国に行ったときは、透析の関係で川原さんと僕2人は、出発はみんなとは別で韓国に行くことになりました。関空に着くと「ガイドブック見に行く。」と本屋に行きました。韓国のガイドブックは沢山あり、それらを川原さんに見やすいように並べると、ガイドッブックではなくその横に見えていた、恋する指さし会話帳を指差して、中身も見ずに「僕これ買うわー。」と普通の指さし会話帳を出し「みんなが持ってるのこっちやで。」と言っても「僕こっちがええ。」60歳近くなっても、恋に前向きな川原さんでした。でも中身は見た方がいいと思うねんけど・・・。

3 広島旅行のバスの中でもっと仕事したいと語ってくれた話
 広島旅行でも僕は川原さんのアテに入りました。バス旅行なので移動中2人で話す時間が沢山ありました。川原さんはもっとメインストリームで仕事がしたいと語ってくれ「月曜日の月シネと水曜日の自立塾以外でやることあるか?」ほかの曜日も何かしたいとの事でした。じゃあ、遊びや旅行に行く計画を立てて、みんなを誘おうってことになりました。まず前から行きたいって言っていたディズニーランドに行く計画を立てようってことで、そのために川原さんがすることを挙げると「わかった。」といい返事を貰いました。鎌倉や後楽園など行きたい所もいくつか言ってました。金曜日を計画を立てる日にして毎週一緒に会議ということになりました。広島から帰ってきた川原さんは、バスの中で約束したとおりディズニーランドのパンフレットとって来てくれました。
 結局、金曜日の会議は一度も開かれませんでした。いまでも僕の引き出しの中には川原さんが取ってきたディズニーランドのパンフレットが入っています。
(川原さん持ってきた本物)


原さん
 川原さんといえば、「お尻いだ〜いっ」って言ってたり、車イスに座りながら寝ている姿や素敵な笑顔が思い出されます。会ったときには、笑顔で「元気?」と話しかけてくれたり、帰るときには「気つけて帰ってね〜」って言ってくれたりして、嬉しかったな〜☆ 今も事務所にそろ〜っと入ってきて、「お尻いだ〜いっ」って言いながら見守ってくれているんじゃないかなぁと思っています。


原淵くん
 私がメインストリームに来たころから川原さんは不思議な人だなと思っていました。毎日、顔を見るたび皆に気づかれないように?郵便物を受け取り、持っていく姿が目にやきついています。又、天気のいい日には道路のまんなかで日なたぼっこを気持ち良さそうにしている川原さん!! その顔を見ていると幸せそう。なにかこっちも幸せを分けてもらえそうになってくる。そんな、川原さんが好きでした。


春山さん
 川原さんが体験ルームにいた時、アテで入った私に対して、すごく頭を下げていました。頼むたんびに「すいません、すいません。」という感じだったので介助者にそんなに気を使わなくてもいいのにと思いました。施設時代のことを聞くとめっちゃしゃべってくれて、施設すごい嫌やってんて。その後、事務所では近くに座っていたので、「川原さん、昨日はどこ行ったん?」とか聞くんですが、私は難聴なので「ごめん、今何って言うたん?」とよく聞き返しました。そういう時、けっこう「もうええー!」を連発されました。あと、私の質問と全く違う答えを返してくれたり、意表を衝かれました。でも、山岸さんはええ人やで〜と言ってくれてたみたいで、それは嬉しかったです。皆といるときは口数は少なかったけど、一緒におるだけで
楽しかったんちゃうんかな!!


藤田さん
 川原さんのチャームポイントのひとつは帽子かな。キャップの横かぶりがあんなに似合う60歳近いおっちゃんなんて他におらへんし。茶髪ロングヘアのカツラをかぶったギャル系なお姿もよく覚えています。冬になるとお母さんお手製のステキな毛糸の帽子。ある日、事務所の近くの東川の道におっことしてましたね。歩道になんか黒いものが落ちてて、よく見てみたら川原さんのいつもの可愛い帽子やったんで、あわてて拾いましたわ。なんで、あんなところに落っことしてたんかな? あの手の込んだ手編みの帽子、あったかそうやったな。
 天気のいい日はいつもお散歩してて、ゆっくり帰宅している川原さんのそばを、アテ開始時間ぎりぎりの私は、あいさつもそこそこに必死のパッチで走りぬけたり…(私も川原さんみたいに余裕を持たなあかんと反省したりしました。)またある日は、とぼとぼ歩いて事務所に向かっていたら、「大丈夫かー!」って心配してくれたり。道端で偶然出会う確立bPでしたね。東川らへんでよく会ったなー。電車やバスに乗ってるとき、外見てたらゆっくりゆっくり動く、黄色い電動を発見することもしばしばありました。ひとりで電車乗ってるのに「うわっ川原さんや!」って思わず笑ってしまったこともあります。ほんま、お散歩好きでうろちょろしてたんですね。事務所にいつもいて、特に何を話すでもないのだけれど、確実に気になる存在で、川原さんおったらなんかオーラ出ててホッとするというか、なんというか、さすが癒し系アイドル! 川原さんはこれからもずっとみんなのアイドルだと思います。


藤原くん
 1999年の初夏、僕は初めて川原さんに出会った。それは僕が自立生活を始めて2ヶ月位で、体験ルームに入っていたときでした。ちょうど一週間の体験で川原さんが隣の部屋にやってきました。最初の印象は、僕の父親と年の変わらない人でも自立生活するのだな、ということでした。40年ちかく施設や親元で不自由な生活をしてきた人が、自立生活を決断して始めようとする姿に驚かされました。50歳を越える人が人生を変える新たな決断をすることは純粋にカッコイイと思います。
 僕は、大学に行くために自立生活を始めたが、施設や親元から出て一人暮らしをするということが、人生において大きな意味を持つことを感じました。大学生活はたった4年だけど人生ははるかに長く、自分の人生を自分で創っていくことが大切だと思いました。実は川原さんがやってきた前後に牧井さんと中川さんがいました。この3人との出会いが、僕が自立生活を深く考えるようになったきっかけでした。
 川原さんが一週間の体験を終える前日「ビール飲まへんか?」と誘ってくれたことを今でも思い出します。そのときの川原さんの笑顔が忘れられません。いいおっちゃんという印象でした。残念ながら川原さんと一緒に遊びに行ったり、深く話したりすることはほとんどできませんでした。そのことが悔やんでも悔やみきれません。でも、どんなときにでも川原さんは僕に「あんた元気か?」と声をかけてくれました。障害が重くなって川原さん自身が大変になっても、僕のことを気遣ってくれました。そのときの川原さんの顔を見ると、もっと元気になりました。こんなこと言ったら失礼かと思いますが、子供のような純粋な好奇心いっぱいの瞳がとても魅力的でした。最後まで自立生活をやり抜いて旅立っていった川原さんはすごいと思います。いつかは僕にもそのときがやってきますが、川原さんや弟の分も僕は長く生きたいと思います。そして、いろいろ経験してきたことを、また逢うときに語り合いたいです。川原さん、おつかれさまでした。天国でも大好きな写真を一杯撮って下さい。FOREVER!


牧井くん
 川原さんと初めて知ったのは29年も前、共通点はいろいろありますね。「カトレアの園」という同じ施設にいたこと、同じ名前、干支もひとまわり違うだけの「亥」というからビックリ! 僕が19歳、彼が31歳の出会いでした。施設職員の中に写真が好きな人がいて、川原さんはまっさきに影響を受けてました。片時もカメラを離さなくなって、暇があれは暗室にこもり無我夢中のようでした。何年か過ぎ川原さんが腸炎をおこし、いつしかカトレアを辞めていました。再会したのは7年前。平岡さんと一緒にメインの2階にいて、ダブルの感激があったな。自立してからは川原さんのさりげないリード力が効いてたように思います。誘われるがままに歩いて見つけたピットインの集まり、近所のお惣菜屋さん、カメラを向けて「チーズ!」と言ってくれたこと。たぶん、あの人懐っこさが周囲を引きつけていたんでしょうね。小学校は四年間しか行っていないと言いながら結構何でも良く知ってたし、あの人柄はとても真似できんな。それに五十路を過ぎてからの自立とくればもうこっちは完敗です。一緒に神戸の『人体の不思議展』に行ったり、広島旅行や良くする会で共にものを考えたりしたことは良い思い出です。カラオケを満喫してあの世へ旅立つなんて、いかにも彼らしいと思いませんか? 贅沢ですよ! 最後に川原さん、スターウォーズのヨーダに似てると言われてたけど、西宮在住でギタリストのクロードチアリにも似てると思いませんか? 四十代以降の人、知らないとは言わせませんよ。川原さん勝手なことばっかり書いてごめんよ! ほなね…。


松島(あ)くん
 川原さんといえば、僕の中では笑った顔・寝ている顔・緑色に塗ってスターウォーズにでてくる人の顔がすぐ思い浮かびます。アテには一度も入ったことはないのですが、事務所や道端で会う人bPでした。プライベートな事でイライラしていても、川原さんのあの笑い顔に何度助けられたことか…嫌なことも吹き飛ばしてくれる気持ちのいい笑い顔。川原さんだからこそ成せる技だと思います。僕もあんな笑い顔ができるようになりたい。 ほんとにバツグンの笑い顔でしたぁ。川原さん最高!


松島(ひ)くん
『お茶』
 「まっちゃ〜んお茶飲ませてぇ」お茶と言っても川原さんの言うお茶はたいてい、電動車イスの後ろのかごに入っている。しかし、たいていお茶らしき物が入っている事はなく、コーラ、サイダー、レモンティーで「お茶はあらへんわ」って言うとやっと「コーラ飲ませてぇ」に変わる。勢いよくお茶(コーラ)を飲み「ありがとう」という川原さん。僕は毎日のようにこの川原さんの理不尽なお願いを当たり前のように、そしてこうしている時間を大切にしていた。
 透析後の川原さんは声が出にくい。「今日は透析どうやった?うまく行った?」と聞くといつも「あかん」だった。声が出にくい日はいつも笑顔でこっちを見ている。または「カマ〜ン」と言わんばかりにクイックイッと右手の指を曲げる。そして「くるしゅうない」と言わんばかりにまじまじと頷く、それが川原さんの合図だった。お茶(コーラ)を飲むためのね。

『写真』
 川原さんは写真を撮るのが大好きなわりに、撮られるのは嫌いだ。いつも川原さんの方へ携帯電話についているカメラを向けると、そっぽを向いてしまう。またはいつもあかんべーをするんだ。「なんでそんな顔するの」というと、「その方が面白い写真が撮れるやろ」とのこと。でも、全体で撮る写真はぴしっといい顔してます。まさか遺影になるとは思わんかったけどね。川原さんにもらった、岡本太郎の『太陽の塔』の写真と携帯電話の中にある、たくさんのあかんべーをしている川原さんの写真は僕の宝物です。

『川原さんがおる』
 雨の日は家にいるけど、雨じゃなかったら川原さんは事務所におる。事務所の中をじーっと見渡している。または寝てる。声を出すと「いたい」、どこがかは言わない。声を出すと「お茶飲ましてぇ」、後ろの籠にはコーラがあった。そんな川原さんが言う一言にはものすごく重みがあって、時として事務所をざわつかせるほどだ。その日は事務所にいるスタッフが少なく、1人アテンダントに行き、2人銀行に行き、だんだん人がいなくなっていって、廉田さんが「おい誰もおらへんやないかぁ」と言った瞬間。「ここにおるでぇ」(川原)」

『遊びにいこぉ』
 事務所からミラージュまでの道中、川原さんとはいつもたわいもない話をする。僕:「天気いいなぁ川原さん」 川原さん:「遊びにいこぉ」 
僕:「仕事中やからなぁ」 川原さん:「なんでぇ?」
 なんでやろな?川原さん。そんな話をしながら、天気の良いミラージュまでの道のりを歩いるのはええ気分やったよ。川原さんの電動車イスのスピードで歩くといろいろなものが見えました。あんなにゆっくり歩くこと普段ありません。色んな人が通り過ぎていくけど、景色はなかなか変わらない。これだけゆっくり歩くと時間をかけて景色が見れるんやと気づきました。いつもと同じ景色が、いつもと違うように見えました。「あそこカラスが多いねん」「今が夕日一番綺麗に見れるんや」
『ちゃんとやってやぁ』 これもミラージュに行く途中だった。僕はコーディネートミスの謹慎がとけた所だった。いつも冗談から始まる僕達の会話は、その日はそうならなかった。「ちゃんとやってやぁ」「あんたおらなあかへんでぇ」「ぼくらの事でもあるねんからなぁ」 ごめんなさい川原さん  ありがとう川原さん


松永くん
 いつもニコニコ笑顔を振りまいておられましたね。お元気な頃は電動車イスに乗って西宮市内に出掛けられていた姿をよく見かけました。川原さんの写真展には3回も行きました。お祭りや子供の風景等、素晴らしい写真でした。今年の写真展に行けなかったことが悔やまれます。ご冥福をお祈りします。


真名野くん
 川原さんが「お尻痛い〜!」、「今日アテ誰〜?」僕が「誰々ちゃうか!確認してみて!」このやりとりは僕と川原さんの挨拶みたいになっていました。皆さんご存じとは思いますが、川原さんはメインストリームNo.1居眠り王。事務所に来て5分ぐらいで寝たり、道路の真ん中で寝ることもしばしばあり、事務所近くの高架下で寝ていて通行人の人が心配になって事務局まで知らせに来てくれたこともありました。最近のHOTなやつでは、一緒に映画「ロッキー・ザ・ファイナル」見に行ったときかな、映画の流れは、ボクシングへの情熱話〜トレーニング〜試合〜感動のフィナーレの流れですが、川原さんは、トレーニングの時点で完全に寝てました。でも映画終了後、寝てたでしょ?と聞いても、川原さんは「寝てないよ良かったわ」と言ってました。でも完全に熟睡してましたね。  川原さんが入院している時に、川原さんのお母さんが「正行は事務所が楽しいみたいです。若い子がたくさんいて、いろんな話をしていて僕は、それを聞いているのが好きなんやと言ってましたよ」と教えてもらいました。ひょっとすると寝てるんじゃなく目を閉じていただけかもしれません。(多分寝てたと思いますけど)
 川原さんはどっかに出掛けるのが大好きだったのですが、最近体が以前ほど自由に動かなくなってました。それでも外出は大好きで「また電動乗って自由にあっちこっちいきたいねん」と言ってました。体調が悪くなってからも、「どっか行こうや〜」と誘えば必ず「行く〜」と返事が返ってきました。
 居眠りする川原さん、外出大好き川原さん、カメラ大好き川原さん、ちょんミスする川原さん、すんげ〜マイペースな川原さん、どの川原さんも大好きです。
 川原さんと、アテとして、コーディネーターとして、そして友達として関わった時間どれも良い想い出です。最後に川原さんが行きたがってた東京ディズニーランドに行って、川原さんの分も楽しんでこれた良いなと思います。


村田くん
 川原さんとの思い出…この文章を書いている今でも多くを思い出せないのがつらいです。だけど川原さんの姿は思い出せます。事務所にいる時の姿、韓国に行った時の姿、一緒にカラオケに行った時の姿…いま、その姿が見えないのはとても寂しいです。そこにいるはずのひとがいないのは心にポッカリと穴があいているようで、なんか変な感じがします。僕にとって川原さんとの一番の思い出は共に話したり、共に笑ったという経験ではなく、一緒にいた時間なんだと思います。川原さんに出会えて本当に良かったです。

(僕の結婚パーティー)


柳瀬くん
 僕は川原さんのアテンダントに数えるほどしか入ったことがないんですよね〜。だから、あんまり想い出って言えるような想い出はほとんどないんです。僕が一番長く川原さんと一緒にいたのは東京デモのアテンダントやったんよね。しかも初めて入ったアテンダントやったな〜。デモやったのに、えらくゆっくりした朝やったな〜。川原さん、忙んでええで〜っていってたよな〜。でも電動に乗って外に出た瞬間、忙がな間に合わへんって言い出しました。もちろん川原さんの足では間に合うはずもなく、電動手押し…。新幹線に乗り込み、駅弁食べて、川原さんが疲れたやろうから寝てええで〜って言ってくれました。でも川原さんの方が早く寝てたなぁ…。デモやってる最中にこっくりこっくりと寝てたなぁ…。帰りの新幹線、今日は1日ご苦労さん。後は帰るだけやから寝てたらええで〜って言ってくれました。でも川原さんの方が早く寝てたなぁ…。家に帰り布団しいて、川原さんが一言、「今日は疲れたからもう寝るわ」。よく寝る人やっていう認識はあったけど、本当によく寝る人でした…。でもアテが終わって、家を出る時「あんたも疲れてるやろうから、はよ寝なあかんよ〜」って言ってくれました。そん時の声は凄く優しかったなぁ〜。


山口くん
 川原さんとの思い出は一杯あるのですが一番の思い出は、朝のモーニングコーヒーです。普段「〜して下さい。」って指示を出す川原さんが、コーヒーをくれる時だけ、「コーヒー持ってけー!」、「コーヒー飲んでけー!」っという言い方でした。僕は、川原さんのこの言葉が一番心に残っていて一番の思い出です。この言葉は、川原さんのアテンダントが事故とかしないようにというアテンダントを思う気持ちと優しさの詰まった言葉だと思います。定期でアテに入って、この言葉とコーヒーを頂いたり、川原さんと多くの時間を過ごすことが出来て本当に良かったと思います。


山崎さん
 毎日メインに通ってた川原さん。平日・土曜はもちろん、日曜に事務所が閉まってても誰が来るかもわからないのに待ってたりして、偶然出会えば、片手をあげて挨拶してくれました。当たり前みたいに。すごく急いでて、ほんの少し事務所による時や、頼まれた仕事を少ない時間でこなさないと行けない時は、ちょっと「いるかな〜」ってどきどきしながら事務所に行くと…いたね。やっぱり片手あげていつもの挨拶。ほんとに急いでて「ごめんね事務所すぐ閉めなあかんねん」って言っても「わかった〜」って一度入ってまた事務所の前に出たり…でもその前に「コーラー飲ませて!」を忘れなかったり…
 体調が悪くなってからも、散歩に行きたくてリハビリを頑張ってた。散歩に行きたくて電動車イス乗ったものの、手を自由に動かせなくなってたため、同じ方向しか回れず、電動車イスがくるくるまわってた。あんまり前に進まないもんやから「押そうか?」と聞いても「大丈夫。ありがとうね」意思は固かったです。ミラージュからメインまで30分たっても帰って来なかったね。誰が声かけても「大丈夫。ありがとう!」と、ひたすら練習にはげんで、また自分でお散歩を目指してました。
 事務所では株をやってた話しやご意見番みたいな話しもしてくれて、川原さんの、ほんわかしたイメージ以外の一面も見せてくれましたが、そういった話しも、もう少し聞きたかったです。お母さんからメインが好き。口挟めなくても若い人の話しを聞くのが好き。コーデイネータはほんとにいい人。といろいろメインの話しをしてくれてたのを聞きました。川原さんは、ほんとにメインの事好きでいてくれたんやね。ってか、メインの一部やけどね


吉田さん
 私は4月からメインストリームに入ったので川原さんと関わったのは1ヶ月ちょっとでしたが、1年前から川原さんのことは知っていました。HPのに載っている帽子かぶってサングラスかけている川原さんは「ダンディーでカッコイィ!!」と私の友達で川原さんファンもいました。私が入社して数日経った頃の話です。真名野さん「川原さんこの子誰かわかる?」川原さん「最近メインによく来る子」…笑☆
 川原さん私のこと介助スタッフって知らなかったんやぁ〜!真名野さんが私のことを4月から入った介助スタッフと紹介してくれました。川原さん「歓迎します!」と言ってくれました。その一言がとても嬉しかったです。川原さん、歓迎してくれてありがとぅござぃますっ。頑張りますねぇ☆


良知さん
 最後に見た元気な姿は「懐かしカラオケ」やった。『夜霧よ今夜もありがとう』シブイやつ歌って、終わりに「ありがとうございましたぁ」なりきり裕次郎やで。
 最近、電動車イスが新しくなり「また郵便出しにいかな」て嬉しそうやった。ポストマン休業になって随分たってたもんね。その前は「お尻・痛い」ていうのが合言葉みたいになって。でも、たまに「お尻・痛い バヤシ」て。そのセリフ結構好きやったよ。メガネ部でも「川原さんの老眼鏡を買いに行こうツアー!」やったな。いつも「なんでもいい〜」て言うのに、あの時は全部自分で選んでた。しかもナイスチョイス!メガネ部のホープやった。あーっ 去年デートしたよね!三宮→スターバックス→映画っていう完璧デートコース♪出かける前に「デートやな」て言ってたもんな。ラブラブじゃなかったけど、ほのぼのデートやったね。映画の内容覚えてたかは不安で聞けなかったけど。それとだいぶ前、事務所で急に「頑張り過ぎたらあかんで。体、大事にしいや」て言われたことがあった。川原さんにそう言われ、すごく気持ちが楽になった。ありがとう。
 私と川原さんって、めっちゃ仲がよかったわけじゃないし、大きな思い出があるわけでもない。でも川原さんがいつもいるのが当たり前で雨の日も土曜日も透析の日も、いつも事務所にきてウトウトして「お尻・痛い」「まなのくーん、明日のアテだれ?」そんな毎日で、そんな毎日がこれからも当分続くんだろうなって普通に思ってた。だから心臓が止まって入院したって聞いた時、めっちゃショックやった。初めてお見舞いに行った時なんか、なかなか病室に入れなかった。ちゃんと顔見れる自信もなく声もかけれないかもって。病室に入ったら現実があるって思うと、それを受け入れる心の準備が必要だったんだと思う。それでもベッドの上の川原さんを見た。泣きそうになる気持ちを必死に押さえて「今どんな気持ちかな。しんどいんちゃうかな。入院したくなかったやろな。早く良くなって帰ろう!」て思った。でも言えた言葉は「また来るね」って。それが精一杯。帰りの車の中で「川原さんは自分の生活に満足したかな? 自分らしく生きたと思えたんかな? 入院してる今の状況をどう思ってるかな?」そんなこと考えながら次の日もその次の日もお見舞いに行ってた。でも、そういうことを考えているうちに「昔のことは知らないけど、私がスタッフになってからの川原さんは結構楽しそうやったな。障害が重くなってたけど、やりたいこと持ってたね。基本、参加型で目立たないけどその場を楽しんでたな『いやいや、まだまだ!』て言ってるかもしれんけど『人生捨てたもんちゃうな』って思ってるんちゃうかな。」って思えるようになった。川原さん、自分らしく生きれてたんちゃうかな。そう思えた頃、川原さんが亡くなって。お通夜もお葬式も、私はほとんど泣かなかった。もちろん悲しかったけど、川原さんが「自分らしく生きれた」って思っているのなら「おつかさまでした。先に行って待っててね!」って気持ちの方が大きかった。でもそれは川原さんが入院してる期間があったからこそ、そう思えたんだと思う。そのまま亡くなってたら、こんな風に思えていたかわからない。川原さんは私たちに(私に?)気持ちを整理する時間を作ってくれたんだって思うと、最後までやさしいな川原さんって思っちゃうね。ちなみに私、この原稿締切りぎりぎりの書き上げで、昨夜「明日中やから!」て考えながら寝てしまったら、夢に川原さんが出てきたよ。ちょっと若くなって、かっこよかった。相変わらずの笑顔で。


脇くん
 僕と川原さんとの想い出は、ないっちゃ〜ないな〜、でも唯一上げるとすれば、僕の名前覚えてなかったことかな。アテはあまり入ったことないけど、よく事務所で「脇君〜!おしり痛い〜!」「脇君〜!お茶飲ませて〜!」「脇君〜!携帯重くてもたれへんから耳にあてて」など、何十回もそんなやりとりが事務所で交わされていたにも関わらず、つい先日川原さんの近くにいた人が「川原さん!スタッフの名前言えるの」と聞き、順番に事務所の机を時計回りに答え始めた。最初に名前で詰まったのは介助スタッフの井上さんだった。「じゃ、この人は?」と、井上さんを指さすと川原さんは「知らん〜」と言った。結構みんなうけていた。僕もわらってた。回り回って僕の順番がきた、僕は川原さんがいつも名前で呼んでくれているので、名前を知っていると鷹をくくっていた。「じゃ、この人は?」僕が指を指された。
 川原さんの答え「知らんわ〜」、正直笑えなかった!
 
編集後記

 いかがだったでしょうか。川原語録。あれっ! 追悼文集のつもりが語録に。でもね、これが川原さんだったんだなって思いました。この「川原語録」を編集していて、何度も泣かされ、何度も笑わされました。それにしても、みんな好き勝手書きすぎちゃうか。なっ、川原さん? 通信61号、閉店ガラガラ(ちゅうげん)